静寂が飲み込む



冷たい窓の外からは、白い雪明りが忍び込んでくる。
雪の降るケテルブルクの夜は、ひどく静かで、紙のこすれる音でさえ耳に響くようだった。
ジェイドは窓際に座り、本を繰る音がする場所を、じっと見つめていた。
視線の先には、寝台に座り込むガイがいた。
音機関の専門書らしきものを、ぱらぱらと捲っている。
その表情が、どこか虚ろな、心ここにあらずといったものであるように、ジェイドには見えた。
「眠らないのですか?」
ジェイドが口を開くまで、ガイは見つめられていることにすら気づかなかったようだ。びっくりした様子で、本から顔を上げる。
「……あ、もう少し読んでからにしようと思って。熱中するとなかなか閉じられなくてさ」
そう答えるガイは、普段通りの笑顔を見せた。
少なくとも、表面的には普段通りの笑顔に見えた。
そうですか、とジェイドは呟く。
「その割に、集中しているようには見えなかったのですが」
「そうかい?」
聞き返すガイの表情が、少し強張ったような気がした。
確かに、ガイはかなり長い間、寝台に座って本を読んでいた。
けれど、あてもなくページを何枚も捲ったり、かと思えばぼんやりと同じ箇所を見つめ続けたりと、その様子は集中しているというには程遠かった。
本を読みながらも、ガイの意識は、どこか別のところにあるように見えた。偏執狂、とまで形容されたとはとても思えない。
「ここ数日、ぼんやりしている事が多いようですが、眠れないのですか?」
ジェイドの問いに、ガイは首を横に振る。
「そんな事ないさ。最近は野宿もないし、ちゃんと寝てるって」
「確かに、床には就いているようですが、だからと言って眠れているとは限らないでしょう」
「別に……」
尚も言い募ろうとしたガイだったが、ジェイドと目が合うと、押し黙ってしまった。
困ったような顔で、ガイはジェイドを見つめていたが、やがて小さく肩を竦めて見せた。
「……アンタは何でもお見通しなんだな」
いいえ、とジェイドは呟き、窓の外に目を向けた。
「貴方に関してだから、気付いただけですよ」
「そんなに気にしてもらえるとは光栄だね」
窓の上に映ったガイが、おどけた仕草をしてみせた。
けれどジェイドは、真剣なまなざしのままである。
「何でもないふりをするのは止めなさい、ガイ」
「ちょっと寝付きが悪いだけだよ」
尚も笑ってみせるガイに、ジェイドはやれやれと溜息を吐いた。
冷たい窓が、白く曇った。
「お坊ちゃんも頑固でしたが、貴方も大概頑固ですね」
ジェイドが振り向く。
何が、と聞きたそうな顔をするガイを、ジェイドは見つめた。
「忘れられないのでしょう? 死んだ姉のレプリカに会ったことが」
今度こそ、ガイが表情を強張らせた。
「……そこまで、お見通し、か」
ふっと息を吐いて、ガイは本を閉じた。
膝に乗せた本の上で、指を組む。
「そんな意識してるつもりはないんだ。けど、こうちょっとした瞬間に思い出して、な」
青い色をしたガイの瞳が、暗く翳った。
そういえばあのレプリカも、よく似た色の目をしていたと、ジェイドは思い出す。
きっと本物の彼の姉も、同じような、海を思わせる深い青の瞳を持っていたのだろう。
「あんな虚ろな表情をしている姉上を、俺は見たことがなかったんだ」
「そうでしょうね」
ジェイドが口を開いた。
「彼女はレプリカです。貴方の姉上ではない」
「分かってるよ!」
珍しく、ガイが声を荒げた。
はっと我に返った様子で、悪い、とガイが呟く。
ジェイドは咎めずに、首を横に振った。
先程よりも、部屋の中が更に静かになった気がした。
白い雪の明かりが、部屋の中ほどに溜まっていた。
「分かってるんだ、俺だって」
静寂の中、ぽつりとガイが呟く。
「ずっと忘れてたけど、今は死んだ姉上の重たさも冷たさも覚えてる。血の臭いだって覚えてる。姉上は死んだんだ。だから、あの時見たのは姉上自身じゃない」
膝の上に肘をつき、ガイは頭を抱える。
「それでも……見た目は、見た目だけは、間違いなく姉上なんだ」
黙ったままガイを見つめていたジェイドが、窓際から離れ、ガイの傍へと寄る。
「眠るときだけでも、忘れてしまいなさい」
静かに語りかけるジェイドに、ガイが僅かに顔を上げる。
「それが出来れば、苦労しないさ」
自嘲気味の笑みが、ガイの唇に浮かぶ。
その顔が白いのは、きっと雪明りのせいだけではないだろう。
「ならば、別の事に強い感情を向けてはどうです」
例えば、とジェイドは囁く。
「フォミクリー技術を生み出し、死んだ貴方の姉上を、レプリカとして作り上げるきっかけを作った私を憎む、とか」
ジェイドの言葉に、ガイは一瞬、驚くような顔をしたが、やがて小さく笑った。
「それこそ、出来るわけないじゃないか」
呟いたガイの前で、ジェイドは足を止める。
「あれだけのレプリカを見たんだ、旦那だって辛いだろ」
ガイが顔を上げた。
「アンタが、俺があまり寝てないって気づいたのって」
無言のジェイドに、ガイは微笑みかける。
「アンタも寝てないから、じゃないのか?」
ガイの言葉に、ジェイドの表情が僅かに揺らいだ。
それにガイが気づいたかどうか、ジェイドには分からなかった。
ただ、どうしようもない哀しみだけが、胸にこみ上げてきた。
「……貴方は、人が好すぎる」
小さく呟いたジェイドが、ガイの両肩に手を乗せた。
「ジェイド?」
不思議そうに問いかけるガイを、ジェイドは寝台の上に押し倒した。
驚いた表情をするガイを見て、ジェイドは呟いた。
「貴方が自分の好きなように振舞えないというのなら、私が勝手にやらせてもらいましょう」
ジェイドの指が、ガイのチョーカーの下に滑り込む。
背中を走る感覚に、ジェイドが何をしようとしているのか理解したガイが身を竦めた。
「ま、待てジェイド、今日はそういう気分になれない……っ!」
ガイが慌てて身を引こうとする。
けれど、ジェイドはその指を止めようとはしない。
「聞きません」
一言の元に、ジェイドが切り捨てる。
片手で眼鏡を外し、寝台の脇に置かれた机に乗せると、嫌だしたくない、と言うガイの耳元に、ジェイドは口を寄せた。
「忘れなさい」
そっと呟いた言葉に、ガイが恐る恐るといった様子で、ジェイドを横目で見た。
ジェイド、と声には出さずに、ガイの唇が動く。
ジェイドの唇が、ガイの唇を塞いだ。
ガイの膝から、音機関の本が滑り落ちる。
バタンという音は、二人の耳には届かなかった。
ただ、雪の夜へと吸い込まれていった。





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